旧暦の季節感と季節観について


「極まれば終わる」、「極まれば萌(きざ)す」、
四立(立春・立夏・立秋・立冬)の季節感と季節観。

旧暦二十四節気は、現代人の季節感と多少、違いがあるように思われます。
二十四節気は中国黄河中下流地域の季節感に基づいてつくられたので日本の気候とは幾分ずれているといわれていますが、春分、夏至、秋分、冬至など二十四節気の大部分はそれなりに違和感なく季節感として定着しています。

ただ、立春、立夏、立秋、立冬は寒暑の実感と大幅にずれていると指摘する人たちもいます。
真冬でも寒さのいちばん厳しい2月上旬のころに春になる(立春)とされ、真夏の暑い盛りのの8月上旬に秋になり(立秋)、時候の挨拶では「暑中」から「残暑」に変えなければなりません。
こういう事実を根拠に、二十四節気をもっと季節に合う表現に改めるべきであると主張される人たちもおりますが、これは旧暦の季節観を誤解していると思われます。

大寒の厳しい寒さの最中には、早く温かくならないものかと切に思い、やがて立春を迎え、気持ちの上で春の始まりを意識すると、日一日と薄皮をはがすように寒気が薄らいでゆくのを感じ、春が近いことを実感します。
気象統計でも立春は寒さの頂点を過ぎる頃に当たっています。寒さが極まれば冬は終わり、春の勢力圏に入り、日に日に春の度合いが強まってゆきます。
暑さが極まれば夏は終わり、次第に秋の勢力が強まり、徐々に秋へと移り変わってゆきます。
つまり、立春とは春になったということではなく、「春の気が立ち始める」という意味なのです。

「極まれば終わる」、「極まれば萌(きざ)す」、これが旧暦の季節観なのではないでしょうか。
季節変化の兆しを敏感に予感し、早くから次に来る季節への期待を持たせ、心構えをさせるところに特徴があるのだと考えます。